体験価値〜「転ばぬ先の杖」を置くことの責任
中学や高校生のひとと話していると、
全く知らなかったこの世のことを、教えてもらえる。
推しとのデートシステム
K-POPのいま
既存のネットショップを使った貢ぎのシステム
リストカットをパワーに変えて敵を倒すキャラが活躍するアニメ
ひと昔前にはなかった驚くようなパラレルワールドの中で、
流石に大丈夫かしら騙されているのではないかしら、
危険なのではないかしら犯罪に繋がるのではないかしら、
ハラハラドキドキ『おとなとして提言しておくべきこと』に
一瞬ばかり思い馳せ、
『あなたのためだから』という言葉の下に、
なにかのドラマのワンシーンみたいな
『無駄になるかもしれないけれど』『やめといた方が楽かもしれないけれど』
ネガティヴワードが頭に浮かぶ瞬間も。
(99%ほぼ言わないけど)
そんなとき出来ることは、
自分自身の不安から来る不必要な干渉を防ぐため、その世界を覗き、未知を既知に変えること。
命や犯罪の危険性を、
一緒にとことん現実検討&シュミレーションすることと、
その結果、本人の想いの確かさを確かめること。
本人の挑戦したい心の在り様を信じて
その想いの火種がかき消されないように、
時々そっと手を添えて温めること。
保護者や周りの理解を得るための、
コミュニケートの練習や工夫を一緒に試行錯誤してみること。
その過程で、周りの理解が得られなかったり、
本人が諦めたり、リスクに気付いて
挑戦が未然に終わっても、できても、
そして結果が伴っても、伴わなくても、
その挑戦までのプロセス自体が
本人に本当に必要な体験であるかどうか、
あったかどうかは、あることになるかどうか、は、
『現在』というただ一点の時間軸のみの善し悪しで
『わたし』が判断できることではない。
『無駄』とはなにか。
『結果』とはなにか。
人は、アスレチックコースという『体験』や
カラオケという楽しみの『体験』にも、
お化け屋敷やジェットコースターという恐怖や不安、
興奮という『体験』にもお金と時間とエネルギーを注ぐ。
最大のリスクをシュミレーションした上で
それでも本人が挑戦を望む時、
傷つくという体験や
失敗するという体験、
失恋して騙されてしまったという体験、
回り道してみるという体験を、
無駄なこととして他者が、自分の責任において奪えるものか。
そしてたぶん、遊びやエンターテイメントの世界と、
本物の人生、『現実』と呼ばれるものの間にある、
本当の意味での明確な境界は、ないのかもしれないのだから。
・・・
昨日のしんどさは今日の幸せに、
あの日の悲しみや寂しさはこの日のために、
こどものころのトラウマやコンプレックスが、おとなのわたしの才能に。
過去と現在と未来で、
物事は変わりゆく。
もちろん逆もある。
未成年の内の、命の危険や犯罪に関わるリスクは別とした上で、
目の前の人が選択し、挑戦するということの体験のプロセスを、
誰しも本当の意味で奪うことはできない。
命ほど大切な人であっても。
そんなことを思う日だった。
・・
見立て、答えのようなものを出すこと。
未然に防ぐことを要求されることの多い現場から。
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